熱く“いこる”ところに人も情報も集まる 理念と経営2024年10月号に掲載されました
理念と経営
2024年10月号
<以下記事同文>
熱く“いこる”ところに人も情報も集まる
浦崎地域CSのコー ディネーターを務め、 学習会を企画した浦崎公民館の生田洋司 館長は「CSを大事に、 浦崎町の地域づくりの一つの柱にしていきたいと思います。学習会をやって良かったです。浦崎だけでなく、向島や吉和、御調からも 参加があり、尾道全体でこのような活動が活発になればと思います」と話した。
「総合情報伝達企業」として、2021年の東京オリンピック会場をはじめ、電光掲示板やデジタルサイネージなど、さまざまな「看板」を手がけるタテイシ広美社。コロナ禍には、本業とは異なるアクリル板パーティション事業で危機を乗り越えた。臨機応変に事業に挑む同社の経営理念とは。 取材・文 編集部
「経営者ってかっこいい」と憧れた中学時代
かつて備後国の国府が置かれていた、広島県府中市。山陽新幹線福山駅からローカル線に乗り45分ほどで、中心地の府中駅に着く。この街にタテイシ広美社は、自社を”総合情報伝達企業”と位置づけ、屋内外の看板をはじめ電子掲示板の分野で全国をカバーする企業である。
会長で創業者の立石克昭さんは、あいさつもそこそこに「私の座右の銘です」と、自身が描いたというポストカードを手渡してくれた。赤々と熾(お)きた炭火の絵の上に「いこるところに人は集まる」と書かれている。
「備後では炭が熾きることを”いこる”と言うんです」
そう言い、肉も野菜もよく熾きている炭の上で焼くと美味しいし、人も熾きている炭のそばに集まる。會社も同じで経営者が”いこる”、すなわち熱い思いを持っていれば、人も仕事も情報も集まってくる、と話す。
経営者が”いこる”ための要件を聞くと、「事業欲。こんな会社にしたい、こんな仕事をしたいという情熱です」と即答する。
立石さんが経営者を志したのは中学生の頃だったという。よく父親の知人が家に来て飲んでいたそうだ。いろんな職業の人がいた。
「聞くともなしに話を聞いていたら、経営者が一番かっこいいんです。今度あそこに新工場をつくる、こんな製品をつくろうと思っていると、いつも夢を語っていました」
高校生になると、どんな会社を起こそうかと考え始めた。絵が好きだったことから看板業をやろうと決めた。すでに10代の頃から事業欲を沸き立たせていたのだ。
大阪で6年修行し、24歳で故郷の府中市に戻り起業した。1977(昭和52)年のことである。
従業員は妻の恵子さん一人。人脈も、仕事もなく、まったくのゼロからのスタートだった。
「看板の仕事は取れず、町を歩いて錆びているベランダを見つけては飛び込みでお願いして、ペンキを塗らせてもらっていました」
素人の恵子さんは、いつも髪や服をペンキで汚した。あるとき立石さんは「後悔しとらんか」と聞いた。すると、「私は汚れても、塗っているものはどんどんきれいになる。こんな楽しい仕事はない」という返事が返ってきたそうだ。
「私が、この事業を絶対に成功させようと思った瞬間でした」
営業に精を出し、水道の機械室の配管塗装と表示、ボディーに字を書く車のマーキングから徐々に看板の仕事を増やしていった。
時代の先を読みすぐに行動に移す
創業から10年後に1つの転機がきた。パソコンの登場である。
「その頃、ほとんどの同業者は”文字書きがパソコンに代わることはない”と考えていたんです」だが、立石さんはいち早くパソコンでシートに書いた文字を切り抜く「コンピューター・カッティング・マシン」を導入した。費用の500万円は大きな出費だった。
「だけど、私にはキツい・汚い・危険の3Kの職場を変えたいという思いもありました」
パソコンは女性でも使えるし、デザインにも女性的なセンスを入れたいと、立石さんは積極的に女性を採用した。自分も作業着をスーツに替えて営業に回ったという。
「最初は恥ずかしかったですよ」
と立石さんは笑う。だが、この変革が数年後におこるバブル崩壊で思わぬ幸運をもたらした。
バブル崩壊で仕事が一気に激減した。”看板一本でやるのは不安だ。何か次の戦略を考えなければ”と、真剣に思ったそうだ。
そんな矢先、大手電機メーカーから「電光掲示板の代理店にならないか」という話がきた。早くからパソコンを導入し業態変革に取り組んだことが評価されたという。
60㌢×30㌢ほどの大きさの製品を車に積み、結構売った。
「お客さんからよく言われたのが『もっと大きなものはないの』『ここにピッタリと合わせたい』といった要望でした。大手メーカーではオーダーはやらないそうで……。そのとき、これは中小企業の仕事や、とピントきました」
自社でオーダーの電光掲示板をつくろうと思った。知人のプログラミング會社に相談すると「できる」と言った。だが「開発には数千万円かかる」という。立石さんは、「自分が数千万円の大型電光掲示板の仕事を取ってくるから、それを開発費にしてほしい」という提案をした。
毎日営業に歩いた。すると一社から「面白い」と反応があった。
「道路脇の土地の有効利用を依頼されていた不動産屋さんでした。そこに電光掲示板を建てようと地主さんを説得してくれたんです」
期間は半年。納期通り、7月に大型電光掲示板を設置した。ところが、強い日差しをモロに受け、LEDで光る字を読めなかった。
どう対処すればいいのか、三日三晩寝られなかった、と言う。
「三日目の番に閃きました。地主さんには夏の太陽に負けない看板をつくって届ける。そして、いまある看板はどこか別のところに売ろう。そうすれば、一遍に二台売れることになる。そう思ったんです」
地主に頭を下げて了解を得て、看板を作り直す一方、手持ちの看板の売り先をいろいろ当たり、県北部に建設中の屋根付きの運動史背に設置することができた。
やがて電光掲示板の内製化を進め、企画から製造までワンストップで行う体制を確立した。いまでは電光掲示板はもとより、省エネの電子ペーパーの技術についても定評を得るまでになった。
経営理念を従業員としっかり共有するために
タテイシ広美社は、創業から47年、一度も赤字を計上したことはない。自己資本比率も70%を上回る優良企業である。その要因は「理念を基に経営を続けてきたからだ」と、立石さんは言う。
理念の大切さを学んだのは、88(昭和63年)に地域の中小企業同友会に入ってからのことだ。
理念には、顧客と自社の繁栄、社会貢献、社員の幸せへの願いをこめた。毎朝の朝礼で唱和してきた。だが、立石さんには、ずっと理念が社員に浸透していないという思いがあった。
なんとか経営理念を自分事として捉えてもらいたいと、2000(平成12)年から経営指針所に社員の個人的な夢も載せるようにした。
「顔写真も入れて、なんでもいいから自分の夢を書いてもらうようにしました。当初は反発する者もいましたけど、いまではいません」
”洗濯機がほしい””オーケストラに所属する””痩せる”……。経営指針所は社員たちのいろんな夢や決意であふれている。互いの夢を知ったことで、社員のコミュニケーション量も増えたそうだ。
立石さんは会社の将来にも夢が持てるようにと、自社の事業領域を”総合情報伝達業”と位置づけ直した。その思い通り、防災情報システムや交通情報システムの分野にも進出するようになった。
現社長で娘婿の良典さんも、この事業領域に可能性を感じ大手印刷会社を辞め入社したという。
「彼は東京オリンピックの開催が決まったとき『五輪の仕事を取る』と、13会場の看板や誘導サインを受注してきたんですよ」
立石さんは顔をほころばせた。
ピンチがチャンスに そのきっかけも”いこる”
新型コロナウイルスのパンデミックが世界を襲ったのは、オリンピックの準備をしている真最中の20(令和2)年だった。三月末には大会は延期が決まり、五輪以外の看板の仕事もなくなっていった。
「そんなとき広島県の産業振興機構から『ウイルスの飛沫防止の対策の手立ては何かないか』という打診を受けたんです」
このときも、”いこる”の座右の銘を証明するように、苦境を打開するカギが向うからきたのだ。
全社一丸となって、その方法を考えた。飛沫防止に使えるモノは何だろうと社内を見渡すと、五輪の看板のために準備した透明なアクリル板の在庫が目についた。
「これだ!」と、アクリル板のパーティションをつくった。
「まだ一般にはなかった頃です。ECサイトやSNSで告知すると、問い合わせが殺到しました」
そんな状況ががコロナ禍の間、ずっと続いたそうだ。五輪も21(同3)年に開催され、その年は過去最高の売り上げを記録したという。
「これまでピンチは数え切れないくらいありました。そのなかで私が学んだのは、”いま起こっている出来事にはプラスもマイナスもない。それをプラス、マイナスのいずれに転がすかは自分の考え方次第で代わる”ということです」
だからこそ、常に経営者は自らを熱く”いこらせて”おくことが肝心だと、立石さんは言うのである。